6月23日(土)、総会の後、懇親会会場に向かう途中で、一杯飲ってみたくなる看板に魅かれましたが
パチンコでした・・・「人生劇場」
神保町で古くからある有名なお店だそうです(部長談)。懐かしい先輩もいらっしゃるでしょうか。
懇親会は新潟、関西、愛媛の各支部から参加された先輩も含めいろんな話題で盛り上がりましたが
故人となられた先輩のことを書いておきます。
まず5月に逝去された故辻村祥典先輩(29卒)先輩
総会では生前剣友会に多大な支援をしてくださった故安田先輩(38卒)と共に、黙とうを捧げさせていただきました。
そして故下池先輩(42卒)、故金野先輩、故川上先輩(共に44卒)の話題になりました。
故下池先輩、1965年(昭和40年)関東個人戦3位の写真
翌年も関東個人戦で準優勝、全日本個人戦で優勝。この時すでに大学の健康診断で病気を指摘されていたそうですが、昭和42年の卒業後に闘病生活に入られ、昭和44年の5月9日に熊大病院に入院(年度は推測)、9月21日に24歳6日の生涯を終えられました。
鹿児島にお墓があるということは過去の「斌徳」にも記されていますが、今年6月、有志が鹿児島のお墓を訪ねたと剣友会総会の冒頭でうかがい、実はその報告を楽しみにしていたのですが、残念なことに時間がなくなってしまい伺えず・・・。花田先輩(50卒)が写真を持っていると聞きましたので、是非、後日、ホームページでご紹介できればと思います。
故金野先輩は2005年(平成17年)に逝去されました。下の写真、最後列左から2番目にいらっしゃいます。
この44卒集合写真は故海野先輩にご提供いただきました。
故川上先輩は・・・申し訳ありません、ご逝去の年が分からず写真だけのご紹介とさせていただきます。次回までに調べておきます。
故金野先輩と故川上先輩についてもご紹介したかったのですが、長くなりましたので今回はこの辺で。後日、ご紹介させていただきます。
海野先輩(44卒)から情報をご提供いただき
2011年7月16日(土)に開催された同期会をご紹介させていただきました。
会場となった 大分県湯布院山水館 での様子はこちら
高槻は設立100周年の準備に携わったことがきっかけとなり
ここに写っていらっしゃる44年卒の先輩の多くを存じ上げている・・・
というのがちょっとした自慢でもありますが
本橋行雄先輩が昨年の4月に亡くなられ、残念な別れも経験しました。
生前の金野憲昭先輩(H17没)には、一度もお会いできませんでした。
故金野先輩が、「斌徳 第四号 (平成元年発行)」に執筆された
「あの頃のこと ~学園紛争と、換気扇と~ 」 は
100周年記念誌「斌徳」の別冊(A4判・平成20年発行)でご紹介しましたが
実は「斌徳 第三号 (昭和54年発行)」にも名文を遺されています。
記念誌編集時、どちらを載せようか悩みました。
44年卒同期会開催に合わせ、その「斌徳 第三号」の名文をココでご紹介。
キラキラした目で学生時代の思い出を語ってくださるOBに会うと
きっと生前の故金野先輩も、キラキラした目をしていたんだろうなぁと想像します。
(略)
試合に臨む際、私は、学生時代にあの熾烈な校内予選に勝ち残り、たった一度だけ選手となった時に着用した「中大」のゼッケンを現在の「トヨタ」のゼッケンの下に着けることにしている。このことを知る者は誰もいないが、これが私の試合度胸の要因であることは間違いない。
確かに私は、かつて「中大」の選手であった。二年生の秋以来、常に参加百名を越す校内予選でベスト8に入りながらも選手となれず、ようやく最終学年の、それも秋になってただ一回きりであるが、私にとっては大学入試以上の難関を突破し、公式戦における名門中大剣道部選手の座に座ったことが、確かにあった。
大学生活の四年間には、青春時代に共通の悩みにも出会ったし、折からの学園紛争にも無関心ではおられなかった。私なりに人生経験も積んだし、どうにか卒業できる程度ではあるが学びもした。しかし、何といっても私の大学生活の根幹をなしていたものは剣道であったと今でも思っている。
中大の剣道部員として四年間を過ごした者であれば、誰でもそれなりの自信を持ってそれ以後の人生に挑戦していると思う。また、選手となることのみが大学剣道の目的であると考えるものはあるまい。しかし、振り返ってみれば、私にとって選手の座とはまさに四年間の猛稽古、いや大学生活そのものの成果であり、その証としての「中大」のゼッケンであるのだ。それが現在の社会人としての剣道に対する自信、もっと大袈裟に言えば人生に対する自信の根底をなしていると言っても良いだろう。
私の剣道はまだまだ未熟である。大学時代の修行の程度にしても、其道に志す多くの人から見れば決して自慢できる程のものではあるまい。それでも私は、白門剣士のはしくれであると自負し、中大で修業しました、と言えることを実に誇らしく思っている。
・・・以上、タイトルは「白門剣士のはしくれ」。
一般生として入部された故金野先輩が、卒業後約10年を経て書かれたものです。
44卒集合写真。故金野先輩は、最後列左から2番目。その右側が故本橋先輩。
ご提供いただいたのは海野先輩ですが、記念誌の別冊P46に、故金野先輩の文章とともに掲載させていただきました。
今日、立ち読みした某剣道雑誌に、この写真を見つけました。
・・・一昨年に発行した、記念誌別冊で紹介した写真ですね。
カラーだと雰囲気が違いますので再掲載しました。
昭和53年の北海道札幌市の夏合宿でのワンシーンです。
過去の夏合宿の地一覧はこちら
この写真から32年後の今年は、12回目の北海道合宿です。
その雑誌に掲載された津村師範の言葉を読み進んでいくうちに
今年は故中倉先生の生誕100年であることを知りました。
そっか、そういう年だったのか!
過去の「斌徳」を探し、先生の思い出を近日中に掲載したいと思います。
2020年4月16日、立浪部屋へのリンクURLを修正しました。立浪部屋の方へ。故高木友之助先生の写真を残していただいてありがとうございました。
2022年6月7日、立浪部屋のホームページがリニューアルされましたので、リンクを削除しました。
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ボツ写真特集...ではなく、
これは100周年記念誌(2008年発行)に掲載された写真です。
7回目の全日本優勝を飾った、昭和53年10月22日の記念写真。しかし...
(写真提供:剣道時代)
↑これです、これ。
この時の優勝を記録した写真がなぜかほとんど発掘できず
これも雑誌社のご厚意により提供いただいたものです。
写真の先輩方、今も面影があるのでお分かりかと思いますが...
第26回優勝メンバー
渡部憲雄、遠藤寛弘、西郷哲哉、小松寛、禰宜田昌彦(四年)
清水新二、木下俊一(三年)、福崎基夫(二年)、穂園元孝(一年) (敬称略)
なお、この優勝を記念して、故高木部長書による
かの有名な「木鶏」(ぼっけい)の面タオルが作成されました。
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木鶏に似たり 荘子(達生篇)
見たところ、木でつくった鶏のようだ。
敵意をもたないものに対しては、これに反抗する敵はない。
無心で他に対することが、万事を処理し、困難に打ち勝つ最上の方法で
あることのたとえ。
紀省子という男が王のために闘鶏を育てていた。
闘鶏を訓練し始めて十日ののち、王が紀省子にもうだいじょうぶか、ときいた。
紀省子は、まだ鶏は虚勢をはっているからだめだ、という。
また十日してきくと、まだ相手の動きに心を動かすところがあるからだめだ、という。
さらに十日たってきくと、もうよろしいでしょう、と答えた。
そのときの闘鶏のようすが、ちょうど木鶏のようであった。
これを見てどんな相手でもこれと闘う気力を失い、逃げ出してしまった、
というのである。
斌徳第三号(昭和54年発行)より
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横綱の双葉山が69連勝の後に破れたとき
「未だ木鶏たりえず」と打電したというのは伝説的に語られているそうです。
そうか、この言葉、故高木部長にとっては特別な言葉だったのですね。
一年ぶりに愛媛県松山市を訪問する機会がありました。
昨年の愛媛合宿の様子は こちら や こちら
愛媛県武道館の周辺は、紅葉が色付きかけ
いろいろな体育施設がある広大な公園はスポーツの秋真っ盛り
運動広場では坊っちゃんとマドンナを迎えて
マラソン大会が開催されていました。
平成14年にプロ野球オールスターゲームが開催された
坊っちゃんスタジアム(左)と
平成16年に東西対抗が開催された愛媛県武道館(右)
この時、宮崎正裕師範代が出場され、
松本伸二先輩(62卒)のお兄様である松本政司先生(香川)と対戦されました。
こちらは愛媛県武道館から少し離れた観光地、山の上にある松山城。
紅葉がきれいでした。昨夏、観光した学生もいるかな?
11月29日(日)、NHKで、松山を舞台とした歴史小説「坂の上の雲」が
スタートしました。そういえば昨年11月2日の錬成大会でも
坊っちゃんから参加者に絵はがきをいただきましたね(左)↓
右は、松山城近くの坂の上の雲ミュージアムで売っていた「坂の上の雲まんじゅう」
故中平琢也先輩(平成4年卒・享年32歳)のお墓参りにも行きました。
ふもとにみかん園が広がり、
お墓からは瀬戸内海が見渡せる静かなところに眠っていました。
20年ぶりの再会だったので、少し長めに、いろんな報告をしてきました。
昨年11月2日の練成大会の記事は こちら や こちら でご紹介しましたが
この練成大会を見学に来られた小野先輩(40卒)が沢山の写真を撮って送って
くださいました。ここでは小野先輩の写真をご紹介します。
優秀立合い表彰となった依田先輩(38卒)と津村先輩(39卒)の立ち合い。
津村先輩(師範弟)はカナダから帰国されての参加でした。
往年の名勝負が再現される様子を真剣に見つめる先輩方。
立ち合い終了後は、数十年ぶりに剣を交えた先輩もいた、稽古会。
稽古会終了後、黙とうの前に整列。
昭和卒と、平成卒で分かれました。手前が平成卒のOB。
見学にいらっしゃった先輩方。
優秀立ち合い表彰。ツムラの「道後の湯」を手に記念写真を撮りました。
一年前の11月1日(土)、東京都千代田区九段北にあるアルカディア市ヶ谷
にて中央大学剣道部設立100周年(創部115周年)記念式典及び祝賀会
が盛大に開催されました。
式典の記事は こちら あるいは こちら に掲載しましたが、今回は
平石先輩(59卒)が撮影してくださった写真をメインに掲載しています↓
司会は吉田先輩(42卒)、「柳家小団治」先輩が引き受けてくださいました。
会場のあちこちで、数十年ぶりの再会がありました。
左から36年卒の岩崎先輩、小西先輩、常光先輩、35年卒の渡辺先輩
40~43年卒の先輩方
52~56年卒の先輩方
昨年11月1日の記念式典で配布したのは、
20年ぶりの発行となった「斌徳」(フトク)だけではありません。
このようなDVDを覚えていらっしゃいますか。
( お手元になく、希望される先輩は、ご連絡ください → chuo_kendo@infoseek.jp )
ひょっとして「斌徳」を読んで胸いっぱいになり、このDVDの存在を
忘れていらっしゃる先輩もいるのではないでしょうか。
ここには「斌徳」に掲載しなかった写真も多く収蔵されています。
これは今から27年前の昭和56年10月18日、八回目の全日本優勝を決めた直後。
相手は早稲田。副将戦まで二対一でリードを許していたが
大将の轟木主将が逆転の二本勝ちを収めた瞬間、
あふれる歓喜の涙を止められなかった。
ただただ轟木に、穂園に、石本に、江川に抱きつき言葉にならなかった。
俺たちの代を代表して戦ってくれた、俺も一緒に戦った、
そんな思いだった。選手で出場した者も、そうでなかった者も、
皆あふれんばかりの笑顔と涙を忘れることができない。
(記念誌別冊P77より抜粋)
記録によると、この時のメンバーは下記の通り。
轟木(四年)、穂園(四年)、江川(四年)、石本(四年)、了戒(三年)、大河内(三年)
片江明博(二年)、片江豊(一年)、大崎(一年) (敬称略)
なおこの日から26年後の昨年11月1日、高槻は式典の二次会で
これらの年代の先輩方とご一緒させていただきました。
優勝の夜も、こうやって、神田節がいつまでもいつまでも歌われていたはず。
皿を持って踊る轟木先輩。
絶好調で香川県民謡「金毘羅船々(こんぴらふねふね)」を踊る大河内先輩(左)。
最短で八段に合格されました。了戒先輩の姿も見えます。
「いつまで経っても一年生」 黙々と水割りを作る大崎先輩。
上の、記念誌の文章を書いてくださった辻村先輩の軽やかなステップ。
四半世紀ぶりに復活、「RYDEEN」。
早すぎてついていけませんでした…YouTubeで聴く場合はこちら
式典を感動のエールで締めて下さった沼田先輩。
見事なエールは健在でした。
式典でのエールはこちら(YouTubeの動画です)↓
パソコン使用環境により、画像が表示されないことがあります。
その場合、下記URLからご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=9eWmGGafOYo
応援歌の背景画像は、最も最近の全日本優勝(平成6年)
この瞬間、会場にいたすべての先輩が、
中大剣道部員だった誇りに顔が輝いていました。
…早いですね。あれから一年経ちました。
11月7日は、大河内先輩や穂園先輩にもお会いできるので楽しみです。
昨年発行した、
設立100周年記念誌、なんと20年ぶりの発行となった「斌徳」(フトク)、
隅から隅まで読んでいただけたでしょうか。
(まだお手元になく、希望される先輩は、ご連絡ください → chuo_kendo@infoseek.jp)
先輩方から沢山の写真をお借りしましたが、すべてを掲載することはできません
でした。そこで、諸事情により掲載できなかった写真をここでご紹介します。
今回は、昭和天皇の病状悪化で列島が自粛ムードにあった昭和63年。
剣道部の80周年の式典も、「自粛」のため、翌年に延期となりました。
そんな地味で目立たない年に、実は団体三冠を獲り、日中明・法中と併せて
五冠を達成したことが、80周年の記念誌「斌徳」に記録されています。
この年の全日本優勝後、故高木先生は「随所為主」の言葉を選ばれました。
これは四冠目の、法中戦。10月8日のことでした。
場所は中大剣道場。古い、木の名札が見えます。
昨年、先輩方の寄附金によって、新しい名札に差し替わりました。
後ろで椅子に座って高井田(4年)の試合を見つめているのは
上西助監督(当時・45卒)ですね。
この日の副将戦、神田(4年)vs若尾(法政)。
なお、この日の先々鋒と次鋒は、21年後の今年8月、大阪で再会しました。
あの頃、まだ少年だった米田君は、東西対抗にも選出される中堅剣士となり
また、母校九州学院を率いてインターハイで優勝するような、立派な指導者
になっていました。
次の再会を楽しみにしています。
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9月13日(日) 第55回全日本東西対抗剣道大会組み合わせ(抜粋)
西軍 東軍
27将 米田敏郎・熊本(H4年卒) - 鍋山隆弘・茨城(筑波大学OB)
他の先輩方の組み合わせはこちら
そろそろ合宿の話題を耳にするようになりました。
過去の合宿地一覧はこちら
5月に北海道の洞爺湖に行く機会があり、当時の記憶をたどってみました。
(高槻は昭和61年の最後の洞爺湖合宿経験者なので、24年ぶり!)
↑晴れると、湖の向こうに、雪を抱いた羊蹄山(蝦夷富士)をのぞみます。絶景!
↑中日にこの白鳥に乗って、こぎ疲れてしまった先輩がいたような…
↑4つの島からなる中島をめぐる遊覧船がありました。
↑夕暮れの洞爺湖。
1978年の泥流災害犠牲者の鎮魂の意を込めた彫刻作品です。
うーん、でも覚えてないなぁ…洞爺湖合宿で覚えているのは湖畔の花火。
毎晩毎晩、花火がとてもきれいだったことと、バスで移動した、体育館。
↑中日の観光のメインは、バスで10分のところにある昭和新山。
有珠山ロープウェイと熊牧場をご記憶の先輩も多いはず。
でもわたしはお金もなかったし、
疲れていたから少しでも横になりたかったし、
そして何より、寸劇の台詞を覚えるのに必死だったし、中日はどこにも行かず。
今回が初めての昭和新山訪問となりました。
寸劇はよく覚えています。故下田敏幸先輩(63年卒)と同じ班でした。
下田先輩が観てきたばかりの映画「天国の駅」(主演:吉永小百合)を台本に
シリアスな演技を要求される羽目に。
なんてったって吉永小百合の役だしね…
深夜におよぶ厳しい稽古の甲斐あって、見事、我々の班が優勝。
レギュラークラスの先輩が、照明や音響といった裏方に徹して下さいました。
女性の死刑囚という難しい役柄ながら(日中の稽古よりキツかった)
迫真の演技により観客の涙を誘って主演女優賞を受賞したワタシは(←自慢)
下田先輩が卒業するまでずっと、その時の芸名(タマエ)で呼んでいただきました。
まさか、卒業されてから一度もお会いできないままお別れすることになるとは
夢にも思わず…。平成17年1月、故郷の熊本で急逝、享年39歳。
八代東高校でインターハイ、玉竜旗、国体を制し
中大でも新人戦(2年次)、関東(3年次)、全日本(2年次)と
団体タイトルを総なめにされた昭和最後の中大主将、故下田先輩の笑顔は
記念誌別冊に掲載されています。
あの時代、「木鶏」の一発芸で勝とうなんて、思わなかったよなぁ・・・ けしからん
(注:剣道時代6月号 「京都から…(下) 山下忠典」をご参照ください)