4月20日(日)に開催された日中明三大学定期戦で、中大が大勝したと聞き
(詳細は、剣道部のHPに掲載予定です。少々お待ち下さい)
なにか、日中明の記録がないかな…と探してみたら、ありました。
2006年の夏に、金子政明先輩(昭和18年卒)よりお借りした写真です。
金子先輩の記憶によると、昭和18年秋。12月の学徒出陣を控えた最後の試合。
二列目は当日の審判団と来賓の先生方で、左から5人目が故北島辰二師範。
後ろから二列目の右から7人目は、故須郷智先生。
この時も、中大の大勝だったそうで、金子先輩は前列左から2人目↓
なお、角栄次郎先輩(昭和19年卒)にお借りした翌昭和19年の4月の写真
かあります。角先輩は前列右から2人目↓
金子先輩から、この時代を振り返っての寄稿をいただいておりますので、
ここで紹介させていただきます。これらの写真の先輩の何名かは、
二度と中大の門をくぐることはありませんでした。
もう一度中大で剣道をしたいと願いつつ、願い叶わなかった先輩がいたこと、
そしてこの時代の先輩方がいて下さったからこそ、今の剣道部があるのだと
いうことを、忘れないようにしたいと思います。
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金子政明(昭和18年9月専門部法学科卒業)
専門部剣士列伝余禄
太平洋戦争が勃発した昭和16年から17年そして18年の学徒出陣を
経て19年に至る当時の鮮明な記憶の抜粋である。
昭和16年度は鈴木英太郎先輩四段。
生まれは東京市本所石原町、出身校は全国に名声を馳せた巣鴨商業
出身で主将
90K余の体躯で身のこなし、剣捌きは抜群 試合巧者で俊才、輝かしい
剣暦の武者も学部在学中に志半ばで病死、黄泉(こうせん)の剣客となった。
昭和17年度は菊池信弘先輩四段で主将
茨城県染和田村出身、村長の息子
水戸の東武館で修行した逸材、流派は北辰一刀流、独特の茨木訛(なまり)、
気風(きっぷ)のよさ斗酒なお辞せず飄飄とした風貌、後輩の面倒をよく
みた先輩である。
昭和18年度松重祥治先輩四段で主将
山口県立柳井中学出身 国鉄の機関士の息子 性格は豪放磊落
名は体を表わし祥は吉祥 治は、なおしおさめる、快男子
学徒出陣で海軍航空隊に入隊、終戦時は海軍中尉、鹿児島県鹿屋の
特攻基地で沖縄出撃寸前であったとの風聞、
その後消息不明。
昭和19年は角栄次郎先輩で主将
人物評を述べるに当って筆者の独断と浅見であるが副将の二人に触れ
なければ意義がないと思う。
副将は鹿児島県都城出身で若松信夫
(註)剣友会会員名簿に掲載の昭和56年卒の愛媛県伊予郡双海町
出身の若松信夫先輩とは同姓同名であるが別人であると思う。
他の一人は、千葉商業出身 小柴勲
この三人は俗称三羽烏、三者三様の太刀捌き甲たり難く乙たり難し、
何れ劣らぬ美男剣士。テレビのない時代であったが若松信夫先輩、
小柴勲先輩も映画スターか、タレントにしたい好男子である。
三人にふさわしい当時の俗謡がある。
腰の軍刀にすがりつき
つれてゆきやんせ戦場え
つれてゆくのはやすけれど
女は乗せない戦闘機
女乗せない戦闘機なら
みどりの黒髪切りおとし
軍服姿に身をやつし
ついていきますどこまでも
筆者は 三人と地下の道場で稽古に明け暮れたことが
半世紀をすぎた今日でも 忘れられない青春の想い出として
消え去ることはない。
(2006年7月記)
戦前の風呂場にて