剣道部設立100周年を記念して発行する記念誌には「同期の頁」を制作予定です。
(以前も、平成6年卒の「同期の頁」をご紹介しました)
ちょうど今、原稿を書いている先輩もいらっしゃると思いますので、ご執筆いただいた先輩にご了承をいただき、昭和40年卒「同期の頁」をご紹介させていただきます。
なお、実際のページのイメージは、こんな感じ(PDF)です。
中央大学剣道部100周年(創部115周年)に寄せて 青山 旭(昭和40年卒)
先ずは、中央大学剣道部設立100周年(創部115周年)ご同慶の至りでございます。我々(昭和40年卒)の同期剣友は30名居ましたが、今年(平成20年)迄に5名の同期を失っている(柿沼・竹尾・宮崎・清水・鍋島)。彼らは学生時代それぞれの思い出を残してくれた。亡くなったことは、大変残念な思いであるが、きっと彼らも天国で100周年を祝っていることと思う。冥福を祈るのみである。合掌。
入学時同期生の内13名が石神井公園近くの合宿所で共同生活をしていた。当時は先輩方が一人二人と民家を借り、何時の日からか定かではないが
『中央大学剣道部合宿所』
の看板を掲げた。大家さんの栗原さんは合宿所の前にお住まいで、学生の田舎から何か送ってくると、合宿所の玄関にあった小さな黒板に名前を書いていただいた。
我々一年生は、皆田舎出身者ばかりで、合宿所の先輩には九州の方々が多かった。合宿所の会話を聞いていると、まるで九州弁が標準語のようであった。
当時の四年生に現在の部長である津村耕作先輩が居られた。学生剣道界で赫々たる戦歴を残し、インカレで最多優勝をして居た中央大学に入学してきた一年生は、合宿所生活での先輩はさぞ厳しいものと思っていたが、先輩方は優しい方ばかりで、特に四年生の先輩は、我々一年生のよき手本になって頂いた。我々も四年生に成ったら、今の四年生のような先輩になろうと機会ある度に話をしていた。また当時、合宿所で寮歌(東の男、西の子の剣持ち集う武蔵野に……)を創ったり、ハワイアンブームの時で、津村部長の弟さんである守人先輩がエレキギターやらウクレレを何処からか調達して来られ、一年生~四年生何れかの趣味の会に入り、夜な夜な練習をし、又、津村兄弟による漫才も度々聞かせていただき、腹を抱えて笑った楽しい合宿所生活でした。反面当時悪い風習であった合宿所生と他の部員の間で一線を画くような風潮があったように思いますが、同じ中央大学剣道部員としてそのような事はあってはならないと、中倉主将を中心に話し合ってきたのも事実です。
我々同期の中には学生時代、個人的な戦歴を残した者は居ないが、全日本学生団体戦では準優勝・優勝・第三位を経験し、良き思い出になっている。卒業後、それぞれの道に進んだ同期の中には、学員体育会・学連の重鎮として今現在大活躍している松原・林君が居り、また一般に難関と云われる司法試験(弁護士)・公認会計士・技術士・不動産鑑定士・税理士試験に合格し、第一線で活躍している者もいる。実業界へ進んだ者はもう退職者が多く、それぞれ悠々自適の生活をしているが、今なお事業意欲盛んな者もおり、今年(平成20)中国で『日本のふぐ料理店』を開店する者もいる。
又同期の横の繋がりはどの学年よりも緊密で、自信を持って誇れる。そして同期の結束を一層固める為に、四年に一度(オリンピックの年)各地で同期会を開催しようとの声が上がり、第一回を日本列島のほぼ中心に位置する愛知県にしようということになり、当時の部長であった北島先生と監督であった須郷先生をお迎えして、第一回目の同期会を26名で開催した。以後四年に一度ずつ開催してきたが、何時の会からか二年毎の開催となり、二年先輩と一年後輩の方々と一緒に開催する事になり、現在に至っている。
最後になりましたが、大学の部生活の中で、北島先生より度々訓話を頂きました。
北島先生曰く、
「大学四年間の部生活は、
これからの長い人生から見ればごくわずかな期間ではあるが、
その間に培った先輩・後輩・同期生の良き関係を
生涯にわたって続けて、初めて
中央大学剣道部に在籍した意義がある」
と言われました。学生時代は何も感じなかったが、65歳になった今日は、それが中央大学の剣道部の良き伝統かと思っている。