澤田先輩(57卒)から立派なビデオ(DVD)が届きました。
えーっ、写真じゃないんだ・・・全部動画とは思わず、さて、どうしたものか・・・
で、写真に分解しました。BGMはスガシカオの「Progress」
相変わらずあの日のダメなぼく♪
あと一歩だけ前に進もう♪
写っているOB、誰だか分かりますか? 垂れネームを左から読むと
「熊本 前田」「熊本 清水」「熊本 清水」「肥後銀行 前田」。
ホームページでのご紹介まで、もう少しお時間をください。
澤田先輩、ビデオはもう少し貸してくださーい。
お詫びといってはなんですが、大学時代の澤田先輩をご紹介。
みなさん分かりますか。一番右にいらっしゃるんですけどね。
・・・初めてこの写真を見た時、ヤバい写真じゃないかと周囲に相談したら
いやこれが当時のファッションなんだと諭されたっけ。 こえーよー
バックは浅川(説明不要かな)。
辻村先輩や江川先輩に会うたびに、約30年前のこの写真を思い出します。
7月下旬、佐賀の太田先輩から写真をいただきました。
いつもありがとうございます。
津村先生のこの笑顔があれば、もう説明はいらないと思うのですが
一応説明しておくと
玉竜旗高校剣道大会(7月24日~29日、マリンメッセ福岡にて)にちなんで
27日(水)に開催された、OB懇親会の様子です。
津村先生、お元気そうですね。
この後、平成卒の若手OBと、天神の「土間土間」で飲んだそうです。
肝心の試合結果は、男子は福岡大大濠が6回目の優勝。
・・・というのは多くの剣道ファンには既知のことと思いますが
実は澤田先輩率いる八代白百合が、渡部先輩率いる新田高校と四回戦で対戦。
八代白百合が勝利しています。
指導者として参加されたOBのみなさま、お疲れさまでした。
エールは橋詰先輩(H7卒)。
「元気と気合はありましたが、正直メチャクチャで・・・坊主!?」
とは、某OB談。他OBの苦笑と合わせてご覧ください。
海野先輩(44卒)から情報をご提供いただき
2011年7月16日(土)に開催された同期会をご紹介させていただきました。
会場となった 大分県湯布院山水館 での様子はこちら
高槻は設立100周年の準備に携わったことがきっかけとなり
ここに写っていらっしゃる44年卒の先輩の多くを存じ上げている・・・
というのがちょっとした自慢でもありますが
本橋行雄先輩が昨年の4月に亡くなられ、残念な別れも経験しました。
生前の金野憲昭先輩(H17没)には、一度もお会いできませんでした。
故金野先輩が、「斌徳 第四号 (平成元年発行)」に執筆された
「あの頃のこと ~学園紛争と、換気扇と~ 」 は
100周年記念誌「斌徳」の別冊(A4判・平成20年発行)でご紹介しましたが
実は「斌徳 第三号 (昭和54年発行)」にも名文を遺されています。
記念誌編集時、どちらを載せようか悩みました。
44年卒同期会開催に合わせ、その「斌徳 第三号」の名文をココでご紹介。
キラキラした目で学生時代の思い出を語ってくださるOBに会うと
きっと生前の故金野先輩も、キラキラした目をしていたんだろうなぁと想像します。
(略)
試合に臨む際、私は、学生時代にあの熾烈な校内予選に勝ち残り、たった一度だけ選手となった時に着用した「中大」のゼッケンを現在の「トヨタ」のゼッケンの下に着けることにしている。このことを知る者は誰もいないが、これが私の試合度胸の要因であることは間違いない。
確かに私は、かつて「中大」の選手であった。二年生の秋以来、常に参加百名を越す校内予選でベスト8に入りながらも選手となれず、ようやく最終学年の、それも秋になってただ一回きりであるが、私にとっては大学入試以上の難関を突破し、公式戦における名門中大剣道部選手の座に座ったことが、確かにあった。
大学生活の四年間には、青春時代に共通の悩みにも出会ったし、折からの学園紛争にも無関心ではおられなかった。私なりに人生経験も積んだし、どうにか卒業できる程度ではあるが学びもした。しかし、何といっても私の大学生活の根幹をなしていたものは剣道であったと今でも思っている。
中大の剣道部員として四年間を過ごした者であれば、誰でもそれなりの自信を持ってそれ以後の人生に挑戦していると思う。また、選手となることのみが大学剣道の目的であると考えるものはあるまい。しかし、振り返ってみれば、私にとって選手の座とはまさに四年間の猛稽古、いや大学生活そのものの成果であり、その証としての「中大」のゼッケンであるのだ。それが現在の社会人としての剣道に対する自信、もっと大袈裟に言えば人生に対する自信の根底をなしていると言っても良いだろう。
私の剣道はまだまだ未熟である。大学時代の修行の程度にしても、其道に志す多くの人から見れば決して自慢できる程のものではあるまい。それでも私は、白門剣士のはしくれであると自負し、中大で修業しました、と言えることを実に誇らしく思っている。
・・・以上、タイトルは「白門剣士のはしくれ」。
一般生として入部された故金野先輩が、卒業後約10年を経て書かれたものです。
44卒集合写真。故金野先輩は、最後列左から2番目。その右側が故本橋先輩。
ご提供いただいたのは海野先輩ですが、記念誌の別冊P46に、故金野先輩の文章とともに掲載させていただきました。
※川口先輩(63卒)からご連絡をいただきました。
私共同期18名中11名参加し、卒業後初の「同期会」を
7月16日(土)~17日(日)、山梨県は石和温泉で開催しました。
(みんな45歳を超え結婚式で会うこともなくなったので、やっと開催)
当日は八王子駅に集合し、その前に我らが主将「下田敏幸」の墓前に報告、
写真を借りていざ石和温泉へ・・・。
卒業後23年経過して、かなりデブになったり、若干薄くなったりしてるけど
みんなあまり変わってないな~と慰めあいながら楽しいひと時を過ごしました。
会った瞬間、会話はバック・トゥ・ザ・フューチャーで1980年代後半へ。
(編注)
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は
1985年のマイケル・J・フォックス主演のアメリカ映画。
1989年にPART2、1990年にPART3が公開され、まさにこの時代を
代表する映画作品である。
残念ながら、仕事の都合等で全員参加できませんでしたが、次回開催時は
なんとかみんなが集まれて、「鎌田鳥山」で津村先生を囲んでやりたいね~
と企画進行中です。
(編注)
「鎌田鳥山」とは、当時、新人歓迎会を行った山の奥のすゞめ料理の店。
「すゞめ」の味は覚えていません。
覚えているのは・・・・・・・ま、いっか(・・・書けないし)。
ところで、これを書くにあたり、ネットで調べて驚きました。
「鎌田鳥山」は南平のすぐ近くなんですね。地図はこちら
当時は南平寮からタクシーに乗って、遠い遠い山奥へ連れ去られたような気が
していたのですが・・・
ワタシも、行く機会があったら、今度は、今度こそ、食事を楽しみたいものです。
川口先輩、情報ありがとうございました!
川口先輩から、モザイクかけるように指示された写真が2枚。
はて、どんな写真だろうと思ったら。
角先輩、ご無沙汰しています!
そういえば
高野山合宿を紹介した1985年の「剣道日本」でも紹介された「スキップ兄弟」は
23年後の記念誌「斌徳」別冊であざやかに復活。
合宿の取材なのに、剣道の写真より歌謡大会の写真の方が多かった、アレです。
これから2ヵ月後に、9回目の全日本優勝でしたね。 あの時も写真を撮りました
もっとも一年生の我々は楽しかったのはココまでだったような。
九段下で祝勝会をやった後、防具を南平寮まで運ぶ同期を手伝って、汗だくになって暗い道を歩いたのがつい昨日のことのようです。
あの道が桜で有名な「千鳥ヶ淵緑道」だったと知ったのは、卒業してから、でした。
これは桃の木の上のサル・・・いや、廣澤先輩だ!
注:サルと称したのは、高槻ではありません。
廣澤先輩も変わりませんね~ この頃から全然、変わっていません。
多分、廣澤先輩が2年の時の全日本優勝の祝賀会にて。
※川口先輩(63卒)からご連絡をいただきました。
63卒の、卒業後初の「同期会」が7月16日(土)~17日(日)に
山梨県は石和温泉で開催され、川口先輩が情報を提供してくださいました。
つい先日休刊してしまった情報誌「ぴあ」の全盛期と重なるこの世代は
決勝まで進んで、相手が国士館だったら絶対に負けないという雰囲気があり
・・・いや、雰囲気ではなく、事実としてそうでした。
1985年と86年だけで
決勝で国士館を破って優勝したことが、団体4回、個人1回。
世の中では「おニャン子くらぶ」がブームとなり、チェルノプイリ原発事故が
起こった年。高槻は発売されたばかりの「写るんです」を手にして、いろんな
優勝シーンを撮影していました。
(20年後の記念誌「斌徳」で日の目を見ることになった次第です)
小代先輩、宮崎県から駆け付けたんですね!
城田先輩、この日もエールをされたんでしょうか。
廣澤先輩が故下田先輩の写真を手にしています。
・・・この代の先輩は、四半世紀前と、全然変わっていません。このとおり。
中尾先輩は、記念誌「斌徳」で、同期のことをこのように記されています。
(略)
とにかく、我々は仲が良かった。思い出探しのために、過去の写真等を振りかえるといつも同期で行動していた。そして笑顔が満ちあふれている写真ばかりだった。
箱根、北海道、九州、スキー。
セレクション生、寮外生関係なしに互いの良いところを認め合い、そして助け合っていたと思う。そして卒業した今もそれは変わらない。この仲間を誇りにおもう。たった4年間ではあるが、同じ目的を持ち、そして同じ方向を向き、悔しさ、苦しみを味わいながらも決して諦めることなく戦い続けた、いわゆる同じ釜の飯を食った仲間は、一生の仲間であると今あらためて感じる。
この伝統の中大剣道部に入部できたこと、この同期とめぐりあえたこと、それが私の副主将としての一生の思い出であり宝です。
(略)
42年卒、吉田先輩の小話も
吉田先輩は、2008年の記念式典で司会を務められました。
その時の様子はこちら
話は尽きず。
翌朝、川畑先輩が参加希望者をバスで、門司港のレトロ街、巌流島観光、関門トンネル人道、山口県下関唐戸市場などを、大変楽しい美人?ボランティアガイド付きで案内してくらました。
巌流島では宮本武蔵(44年卒の小川忠彦)に会ってきました。
巌流島には、武蔵だけでなく小次郎(44年卒の佐藤憲一)もいました。
関門トンネル人道で県またぎ。向こうが福岡県、手前が山口県。
右から44年佐藤、46年川畑、44年中西、45年安ヶ平、44年海野
翌17日(日)、42~46年卒の同期会に合流するために北九州市小倉北区にある観山荘本館(46年卒川畑先輩が経営)へ。道すがら、二台の車で、山内君のブルーベリー畑を見たり、宇佐神宮参拝をしたりしながら、2時に到着。
観山荘本館 についてはこちら
宇佐神宮 についてはこちら
3時より10名で稽古会。40数年ぶりに竹刀を交えました。5組の立会いの後、思い思いに相手をお願い、猛暑の中、たっぷりの汗をかきました。
小川忠彦先輩(44卒)と上西先輩(45卒)の稽古をみているのは
安ヶ平先輩(45卒・愛知県在住)。
前列右から
42年福澤忠、42年奥村英俊、42年弘友和夫、41年赤坂哲生、
津村前部長、42年青山勲、44年小川忠彦
後列右から
43年土岐英夫、42年吉田武脩、43年久松好弘、44年海野秀夫、
44年中西安廣、43年大森徳雄、43年、原英俊、45年上西昌男、45年安ヶ平博
(敬称略)
6時からの懇親会には、所要で前日より北九州に来ておられた、41年卒の赤坂先輩も参加され、総勢32名で夜中まで大盛り上がりしました。
赤坂哲生先輩(41卒)。沢山の差し入れも頂戴しました。
続く。
※海野先輩(44卒・主務)からご連絡をいただきました。
2011年7月16日(土)に
大分県湯布院山水館で昭和44年卒同期会を開催しました。
同期11名に津村前部長をお招きして総勢12名。6時半からの懇親会では久しぶりに顔を合わせた仲間が、昔話に花をさかせ、楽しい時間を過ごしました。
二次会では地元のお酒を飲みながら、夜中の2時頃まで、話はつきませんでした。
大きく見る場合はこちら
二次会で地元大分出身の山内君より大量の差し入れ。
萬歳、森下の掛け合い漫才で、いつも騒がしい小川の出番なし。
(ものすごい、つまみの量ですね・・・)
翌日に続く。