海野先輩(44卒)から情報をご提供いただき
2011年7月16日(土)に開催された同期会をご紹介させていただきました。
高槻は設立100周年の準備に携わったことがきっかけとなり
ここに写っていらっしゃる44年卒の先輩の多くを存じ上げている・・・
というのがちょっとした自慢でもありますが
本橋行雄先輩が昨年の4月に亡くなられ、残念な別れも経験しました。
生前の金野憲昭先輩(H17没)には、一度もお会いできませんでした。
故金野先輩が、「斌徳 第四号 (平成元年発行)」に執筆された
「あの頃のこと ~学園紛争と、換気扇と~ 」 は
100周年記念誌「斌徳」の別冊(A4判・平成20年発行)でご紹介しましたが
実は「斌徳 第三号 (昭和54年発行)」にも名文を遺されています。
記念誌編集時、どちらを載せようか悩みました。
44年卒同期会開催に合わせ、その「斌徳 第三号」の名文をココでご紹介。
キラキラした目で学生時代の思い出を語ってくださるOBに会うと
きっと生前の故金野先輩も、キラキラした目をしていたんだろうなぁと想像します。
(略)
試合に臨む際、私は、学生時代にあの熾烈な校内予選に勝ち残り、たった一度だけ選手となった時に着用した「中大」のゼッケンを現在の「トヨタ」のゼッケンの下に着けることにしている。このことを知る者は誰もいないが、これが私の試合度胸の要因であることは間違いない。
確かに私は、かつて「中大」の選手であった。二年生の秋以来、常に参加百名を越す校内予選でベスト8に入りながらも選手となれず、ようやく最終学年の、それも秋になってただ一回きりであるが、私にとっては大学入試以上の難関を突破し、公式戦における名門中大剣道部選手の座に座ったことが、確かにあった。
大学生活の四年間には、青春時代に共通の悩みにも出会ったし、折からの学園紛争にも無関心ではおられなかった。私なりに人生経験も積んだし、どうにか卒業できる程度ではあるが学びもした。しかし、何といっても私の大学生活の根幹をなしていたものは剣道であったと今でも思っている。
中大の剣道部員として四年間を過ごした者であれば、誰でもそれなりの自信を持ってそれ以後の人生に挑戦していると思う。また、選手となることのみが大学剣道の目的であると考えるものはあるまい。しかし、振り返ってみれば、私にとって選手の座とはまさに四年間の猛稽古、いや大学生活そのものの成果であり、その証としての「中大」のゼッケンであるのだ。それが現在の社会人としての剣道に対する自信、もっと大袈裟に言えば人生に対する自信の根底をなしていると言っても良いだろう。
私の剣道はまだまだ未熟である。大学時代の修行の程度にしても、其道に志す多くの人から見れば決して自慢できる程のものではあるまい。それでも私は、白門剣士のはしくれであると自負し、中大で修業しました、と言えることを実に誇らしく思っている。
・・・以上、タイトルは「白門剣士のはしくれ」。
一般生として入部された故金野先輩が、卒業後約10年を経て書かれたものです。
44卒集合写真。故金野先輩は、最後列左から2番目。その右側が故本橋先輩。
ご提供いただいたのは海野先輩ですが、記念誌の別冊P46に、故金野先輩の文章とともに掲載させていただきました。
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