【裏・斌徳シリーズ】第二弾。
中四国OB戦に続いて、東海OB戦について中山睦友先輩(62卒)に原稿をいただきました。なお原稿をいただいたのは今年の東海OB戦の前でしたが、ご紹介が遅れたので、12月のエピソードは後日、加筆となりました。
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中央大学剣友会愛知支部 中山睦友(62卒)
現在、私が東海OB戦に求めるモノは勝敗ではなく、多くの同窓生の皆さんと縁を持つ事である。
中央大学は東海OB戦の第一回大会から出場している。そのキッカケは、当時の記憶が定かでないが、故青山先輩(40卒)や安ヶ平先輩(45卒)の鶴の一言だったと思う! 第一回大会では、青山監督を筆頭に安ヶ平(45卒)、轟木利治(57卒)、穂園(57卒)、大河内(58卒)、中山(62卒)という、二人の警察官と実業団選手の混合チームで挑み、順調に決勝まで勝ち進んだ。決勝戦は勿論の如く中京大学であり、試合前に先輩方が『さすがにご当地(東海)で中大の初回大会優勝は如何なものか?』とささやいた言葉を覚えている。手を抜く事なく戦った結果は実力負けの準優勝!
しかし、初回大会に中央大学の名を刻む事ができた。当時、卒業して6年。普段、先輩方との会話は挨拶程度だったが、同じチームで戦う事で多くのモノを得る事ができた、この大会に感謝したものである。
それ以来、毎年の様に出場させて貰ったが、成績でピークを迎えたのが第5回からの3大会。メンバーは生地(52卒)、轟木(57卒)、穂園(57卒)、大河内(58卒)、中山(62卒)、佐村(H5卒)、小栗(H11卒)。
三位、優勝、優勝と第6回、7回大会を連覇したが、実は各試合の勝敗は私の現役時代の様に薄氷を踏む様な戦いで、代表戦を含む、その殆どが僅差での勝利であった。
そしてその翌年に優勝杯を返し、その後の試合を欠場した事を境に東海OB戦出場の機会を絶ってしまった。
それから15年が経ち第23回大会で復活する事になったが、このキッカケは、たまたま名古屋勤務となっていた竹田先輩(H6卒)(編注:2018年12月現在も名古屋勤務)と、中大剣友会の広報、高槻先輩(H元卒)の連携プレーと考えている。
(2017年の全日本女子で、竹田夫人撮影)
竹田先輩が監督として大会冊子の『栄光の記録』に名前を残したい下心(笑)に高槻先輩のプッシュが功を奏し、久しぶりの出場が実現。これも縁。・・・なお竹田監督、未だその夢(=『栄光の軌跡』に名前を残したい)叶わず。
平成最後の年は二大会に出場した(2月12日と12月15日)が、両大会ともハプニング続きとなった。
まず2月は羽田野先輩(H17卒)が風邪でダウン、前夜に連絡を受けた楢崎先輩(H14卒)が急きょ道場に防具を取りに行き、遠路遥々、早朝より、新幹線で静岡の地から名古屋へ来てくれた。
この時は石川(H26卒)、福間(H24卒)、楢崎が勝負し、玉田(H21卒)、中山が引き分け要員として挑んだが、玉田先輩も勝ち補ってくれたりで良い連携であった。帰りに一杯会で良い同窓会ができ、東京に帰省していた牧ノ瀬先輩(H4卒)も駆け付けてくれて
これがOB戦の良いところなのだろうと改めて感じた。
12月は、今度は福間先輩が前夜に体調不良でリタイヤ。監督兼補欠だった玉田先輩は、実家(徳島)に防具を送っていたために手ぶらでの来場となり、高槻先輩にカツを入れられる羽目となった。しかし4人での出場ながら初出場の兵藤(H30卒)、澁谷(H25卒)、羽田野(H17卒)の活躍により一勝をあげることができて、それはそれで、楽しかった。
初回大会で先鋒を努めていた私も今では大将(いや本来はシニアチーム)。最初に書いた通り、OB戦は支部を盛り上げる、ひとつのアイテムであり、要請があれば出場して先輩後輩と新たな縁(出会い)に繋げたいと思っている。この繋がりを絶やさない為にも東海地区に居る剣道部OBの皆さんには是非、集まって頂きたい! そしていつかはまた勝負にこだわって、全国大会で更に縁を求めたいと思う。
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