平成6年卒 山下忠典(宇治高)
三浦先輩が永眠された。
その日のうちに奥さまからご連絡をいただき、言葉がなく、今までの思い出が胸に蘇ってきた。
「忠典。わしは先輩ではなく、
お前にとってはみうらのおっちゃんやな!」
三浦先輩との出逢いは記憶も定かではない幼少の頃であるが、その前に父と三浦先輩の出逢いを書かなくてはならない。
60年以上前のこと。
私の父(山下 文男)が営んでいた京都のスナック「ふみ坊」に、中大生だった三浦先輩がふらりと現れた。ご存じのとおり酒豪で知られる三浦先輩、一緒に訪れた京大の友人との楽しい宴も終盤、父から渡された請求書に目を丸くした。その頃の京都のお店はいささか料金設定が高かったようであり、用意していた懐具合では持ち合わせが足りず。京都では既に一定のお客さまに贔屓にしてもらっていた「ふみ坊」のマスター(父)から
お代は結構。
学生はもう少し安い店で飲んだ方が良いのでは?
と京都特有の嫌味を言われた。
先輩は「ちくしょう」という思いで、一旦その場は退散、福岡の実家に帰省。再び東京に戻る際に京都で途中下車、飲み代を片手に「ふみ坊」再訪。こういうことにめっぽう弱い父。この時から父と三浦先輩は少し年離れた永遠の友となった。
大学卒業後、三浦先輩は京都で就職。生活拠点が近くなった両名の関係性は強くなり、二人を取り囲むように剣道関係者との輪も広がっていた。「剣道」に興味がなかった父は、そのころから「剣道」にのめりこむようになる。
三浦先輩は、子供ができたら剣道をさせるようにと繰り返し父に話していた。山下家に長男誕生。小学1年から剣道を始めた。次男もその二年後に剣道を始め、それから四年後、私に選択肢はなく剣道を始めることになる。
スナック営業終了後の深夜、帰宅した父に「みんな起きろーっ」と三兄弟が起こされる。気分を良くした父の横に、これまたご機嫌な三浦先輩。こういう場面が幼き記憶に多く残っている。ビール瓶を竹刀にみたて正眼に構えさせられる。「よかち、よかち」と満足げな三浦先輩とは反対に、ビール瓶を持つ三兄弟は早期解放を願った。
翌朝は、自宅前の空き地で剣道指導。兄ふたりは参加したが、末っ子の私はなぜか逃げ回っていたようだ。それが原因かどうかは定かではないが、三兄弟で一番戦績を残したのは指導を受けなかった私。のちのち三浦先輩との笑い話にもなった。
三浦先輩の積極的な指導を拒み続けた私は、大学進学を考える時期になると、先輩の母校である中央大学に興味を持つようになっていた。剣道雑誌に中央大学の夏期合宿の様子が掲載されており
(写真提供:剣道日本様)
稽古風景よりも一発芸や寸劇の記事が大きく取り上げられていた。
(月刊剣道日本 1985年10月号)
その大学が全日本団体優勝回数日本一。さらに興味が湧く。監督は三浦先輩の同期、津村耕作先生である。
「名門 中央大学」のことは何度も聞いていた。しかし、まさか私が大学の後輩になるとは思ってもみなかったであろう。
中大入学後の大会には必ず三浦先輩の姿があり、いつも励ましてもらった。祝勝会では一緒に「愉快なり」を何度も踊った。
悔しい思いをした時は愛情ある叱咤激励があった。
「敵は強い方が良い」
三浦語録のひとつであるが、敵が強ければさらに自分も強くなれる、と先輩らしい励ましであったと今でも感謝している。
2016年8月の玉竜旗懇親会にて
まだまだ思い出は尽きない。
剣道を始めるきっかけや、大学進学、人生のターニングポイントに三浦先輩の存在があった。4年次の進路検討の際、中央大学に残るか企業へ就職するか悩んでいた時も、わが子のように相談にのってもらったことがついこの間のようである。
先日の告別式。秋吉先輩(50卒)が弔辞を述べられた。三浦先輩との心温まるエピソードに感動。また前日の通夜に参列された弘友先輩(42卒)から、お別れの言葉として手紙を預かり代読させていただいた。そのあと少しだけ私からもお別れの言葉を伝えることができた。
幼い時の記憶にある、我が家でランニングシャツとパッチ姿で楽しく酒を飲み、大声で笑っている姿は、私には「みうらのおっちゃん」との良き思い出である。
最後に、10ヵ月前に「ふみ坊」こと山下 文男が他界した。三浦先輩のことが大好きだった亡父は、天国で一緒にうまい酒を飲むことを楽しみにしているだろう。いや既に飲んでいるかもしれない。
ゆっくりお休みください。
本当にありがとうございました。
追伸
少々失礼な内容になってしまいましたが、お許しいただければ幸いです。
2008年11月1日 創部115周年記念式典(アルカディア市ヶ谷)にて